つい、今の自分を重ねてしまう【村田沙耶香・コンビニ人間】
村田沙耶香著作の「コンビニ人間」。タイトルから連想することは何だろうか?
コンビニといえば、どこにでもある・便利・24時間開いているといったことを連想するだろう。コンビニエンスストア・・・・Convenience+Store。直訳すると「便利なお店」だ。まったくもって違和感はない。
コンビニにもいろんなブランドがあり、そこで売っている商品も少しづつ違っている。セブンは弁当がおいしい、ファミマはファミチキ、ローソンはスイーツがいいといった風に。
違っているが求められていることは同じだ。どこでも・便利で・いつでもある程度の物欲が満たせる場所。あるいはトイレを借りに行く場所。
非日常ではなく日常の一部として存在していることが求められているのだ。
コンビニはそういう意味では主人公になりえない、ありふれすぎているから。普遍性のあるものを語ることは、その普遍性の歴史や運用形態など、ビジネス的な観点で語られることはあっても、中で働く一個人に焦点をあてられることはなかったのではないか。
僕はそう思っていたし、変なタイトルの本だなぁと名前を聞いた時は思った。
この本で語られるのは、その中で働く「人間」自体も「コンビニ」として普遍性を求められ、マニュアル化された「店員」として矯正されていった主人公、古倉さんという人間を通した現代日本社会の一端を描いている本である。
規格化されたシステムがあり、統一化された商品の陳列方法・言葉遣いがあり、慣れれば誰でも「マニュアル人間」として存在することができる世界、コンビニ。同時に、その世界に適応すらできない異物は容赦なく排除され、正常化され回っていく世界でもあると本は書く。
思い出すのは、小学校と就活だ。小学校では、男の子は黒、女の子は赤のランドセルを背負って集団登校して朝の点呼を受け、集団給食を食べ、集団下校する。同じ地区の子らが集まって1~6年生が登校し、班長は旗を持って皆を統率していた。誰も、信号無視をしたり勝手に飛び出したりしなかった。
先日、朝の集団登校風景を見かけることがあった。涼しく快晴の爽やかな朝だった。みんなマスクをして一言もしゃべらずざっざっざっと歩いていく様は、今も続く画一社会、右に倣うことで思考を停止し、マニュアル化した動作を求められることは、先生にとっては都合がいいが、同時に、彼らの思考・生活を抑圧しているのではないのかと感じさせられた。
就活では、みんな同じスーツ、身だしなみ、髪型、カバンで就活し、バイト・サークルリーダー、ボランティア活動をした活躍を語っていたように思う。自分もその例にもれずだったが。
この本を読んだのは二度目だ。確か、2018年。その時は、主人公の世界観にこの小説の面白さを感じた。自らを「部品」とし、人間社会を構成する一つの「歯車」として地道に生きていく世界観に。世界の主人公ではなく、あくまで自分は要素の一つでしかない、その思考回路に。
そして今日、もう一度本棚から手に取った。なぜ手に取ったのかというと、ラジオドラマかなにかでこの本の書評をしているのを聞いたからだ。不思議なもので、自分にとっては思い出に残っていなくても、誰かがそれを語っているのを聞いたりするとついもう一度読みたくなる。読みたくなるだけで実際に読むことはあまりないのだが。
そして今、読んでみると、また新たな価値を見出したことに気づいた。それは自らの変化ということもあるだろうが、自身もそのような人間になりつつあるのではないかという一種の共感からだった。毎日の生活が同じ動作で成り立っているからだ。
僕は一人暮らしだ。
6:45に起床し、一階に降りる。冷凍庫を開け、ごはんをチンする。同時に、冷蔵庫から牛乳とコーヒーを取り出しコップに注ぐ。卵と醬油を取り出し、チンが終わるのを待つ。
チンが終わったらTKGを作り、掻き込みながらスマホで朝のニュースをチェックする。
7:00になったら着替えをする。5分もかからない。
ゴミを家の横の公園に出して、車に乗り45分ほど運転し8:00までには出社。
出社と同時に自席のPCを立ち上げ、窓を開け他の共有端末も立ち上げる。
トイレに行くと同時に、朝の歯磨きを会社で行う。8:15頃から同僚が出てくるので挨拶をしながら8:30始業。だらだらと仕事をする。
12時になったらオートミール+お茶漬けの素を紙皿に入れ、お湯を注ぐ。12時15分までには食べ終える。食べ終わったら30分ほど読書か昼寝をし、12時50分には歯磨きを行う。13時に始業し、ダラダラ仕事を行い17時30分には終業である。
終業後は帰り道のコメダで読書するか、帰宅して着替えて簡単なご飯を作る。冷凍ご飯をチンして、フライパンでウィンナー卵焼きを作るのが主だ。そして、ネットサーフィンをして23時には一日を終える。
こうして書き出すとマニュアル化された動作を行っている部分がかなりあるのだ。
就業中に会話をするのは仕事に関することが主だ。個人的な話は興味を持たれていないからだろう、あまりされない。いや職場全体で個人的な趣味の話や日常の話をしている雰囲気がないから全社的なものなのだろう。昼休みはみんな自席で黙ってスマホいじりだし。だから日々の日常に変化を感じないのだ。
日常とはそういうものだろうといってしまえばそれまでなのだが。自分が変化を起こすのを恐れてしまうようになったから。本当は閉じこもりたくないのに、小さな殻に閉じこもることに慣れてしまった自分を嫌になる時がある。
受け答えの仕方や思考方法といった人間的な部分で、規格化された部品としての役割を演じ切ることに慣れてしまった主人公を描いているので、本の中身は自分の日常とは全く違うのだがなんとなく重ねてしまうのだ。
ふと似たようなタイトルでオマージュ作品を作れないか?と思った。
「マクド人間」だったらどうだろう。
うーんやはりだめだろう、ありふれているようで、ありふれていないような存在だ。
なんだろう、惜しいのだ。「マクドに行く」ことはあっても「マクドに寄る」という感覚がない。つい・なんとなくという感覚、「コンビニに寄る」という感覚と同じものが欲しいのだ。
そういう意味でやはり、「コンビニ人間」じゃないとだめなのだろう。
個人的な日常を書いてしまったため、あまりまとまりはない書評ではある。
とても素晴らしい本を読ませてもらえてありがとうと伝えたい。